マスク同盟-Maskman is here !-番外篇 Interlude.2.
いま、「愛」の妙なる調べ2021年1月31日日曜日に、これを書いている。
ぼくらが新型コロナウイルス、COVIDの猛威に晒されはじめてから、もう一年になろうとしている。いまは第三波の襲来ということで、二回目の緊急事態宣言が十一都府県に発出され、感染者数も鰻(うなぎ)登りだ。東京の感染者は四桁(けた)に達し、我が埼玉県も宣言の対象になっている。
感染拡大を抑えるには、人の流れを止めること、接触を減らすことが必要として、街の飲食店中心に営業時間を短くするお願い、所謂時短要請もだされたが、経営者の方々にとって、これは厳しいもので、テイクアウトや宅配に活路をみいだすお店もあるが、苦しい情況に変わりはない(街でウーバーイーツの自転車やバイクをみない日は少ない)。さらには飲食店のみならず、失職し、明日をも知れぬ身である人々も少なくない。
我がスキップも、本館・新館ともに半日体制を迫られている。午前か午後、どちらかのみの通所に絞り(時間も、10時~12時、13時~15時と、これも時短となっている)、昼休みは在所できないことになった。
ぼくらスキップにおいては、まだ感染者はでていないが(でたら閉所の怖れがある)、ニュースなどを観る限りでは、結構若い方も感染しているようだし、家族内感染や自宅療養中に亡くなってしまった方(高齢者だった)、また、恢復(かいふく)はしたが、後遺症が残ってしまった方などもおられるとのことだ。これは対岸の火事ではない。罹患(りかん)の危機は、つねにぼくらと隣あわせなのだ。
みな日常生活では不自由な想いをしていることと思われる。石鹸(せっけん)をつかっての手洗い、手指の消毒(ドアノブや机、椅子なども)、マスクの着用、ソーシャルディスタンス(社会的距離)を充分とること、TVなど観ていても、出演者同士のあいだに透明なアクリル板の仕切りが設(しつら)えられている(そのうえさらにソーシャルディスタンスをとっている)。
部屋、電車内での常時(部屋は時々閉めることもあり、それは健康上の観点からOK)換気など枚挙に暇がない。PCR検査などで陽性判定が出た人たちへの差別・偏見も根強い。宅配のトラックドライバーも配達先の家で、住人に、ドアを開けたら、いきなり消毒のアルコールを噴射されたといったケースもあったようだ。そこには「分断」の二文字が現象しているように思われる。ひとつはコロナにより、感染の脅威に遭(あ)った、生物学的レベルでの、つまり肉体と精神の分断、それはいま感染者増で逼迫(ひっぱく)に苦しめられている最前線の医療現場がそれを象徴しているところのもの。もうひとつは、陽性の方などに対する、所謂「自粛警察」など、それ以外でも一般のコロナ未罹患者などの、上述したような差別・偏見やそれに基づき、危害的意識をむけた行為や思(し)惟(い)を加えるといったこと。
いま、新型コロナウイルス、COVID-19が何処からよってきたのか解明するよりも、ぼくらの世界がまだ正常なものとして在るなら、ぼくらのそれへの信頼を恢復することが先決であろう。つまり「分断」にNOをつきつけることだ。それにはなにが必要か。若干口はばったいが、はっきり言うと、それは「愛」である。愛とは信頼、情(じょう)、協力、手助け、挨拶の言葉……、探せばもっとあるだろう。要はポジティヴな意識・想念といったものが、即ち「愛」なのだ。
このことがとても信じられない、首肯(しゅこう)できない方々のために説明を試みよう。それは、ぼくが小学生の子ども時代の或る日、友人同士、そのうちのひとりの家に集まって、積み木で家や建物、また基地を模したものをつみあげ、つくる遊びをしていたときだった。ぼくはその様子を眺めた。その瞬間、僕の身体全体に電気のような衝撃が走った。子どものぼくは、そのとき、それがなにかはわからなかったが、成長してから思ったことは、みなが揃って、それぞれの家などをつくっているという、仲の良い穏やかな且つ平和な静謐(せいひつ)を保ちながら、そのような形での自由が認められているといった、言葉にすればそのような意識が、身体感覚としてやってきたものが、ぼくの感受した衝撃であったのだ。それは、やはり「愛」の言葉で表現できるものなのだ。子どものぼくはそういった謂(い)わば体温のある感覚に飢(う)えているのだ。それはいまになって、ひしひしと感じる。また、ぼくの父は、歳を取り、高齢者となってから、親しく話しかけられる機会がふえたのだが、親身になって言葉をかけてくれる人(それはヘルパーさんや介護職の方々だったりするのだが)にむけて泣きそうな笑顔を浮かべ頷いている。この感情もまた「愛」であろう。これも、うちはこうした情緒(じょうちょ)や感覚が足りない、ぼくに言わせれば、冷えびえとした、若干怖ろしい家庭だったのだということになる。
話を戻そう。そのように、「愛」を必要とするぼくら、「分断」を乗り越えるために、それを必要とするぼくら、ここでどんな方法による方策が適しているか、それを考えよう。みなそれぞれに想うところがあるだろう。ぼく個人としては、そんな力はあるのかどうかわからず、たとえあったとしても、それはほんの微々(びび)たるものと思われる。こう考えたとき想起されるのは、このブログの存在だ。この第1回で、ぼくは「不自由な想いをみなしていることと思うが、食事時は唯一マスクを外して空腹を満たすことができる時間。みなさんの気晴らしに本ブログがなれば」旨記した。そう、自由の象徴としての食事、その料理の味(コロナになると味覚症状がやってくる)、それをみなさんにお届けできたらという想いで、本ブログは開始された。やはり微力な人間ひとりでは、コロナによる精神と肉体、ひいては社会の「分断」を乗り越える力は、本ブログによる「愛」の、緊急事態宣言の発出にも敗けぬ、発露に始まり、発露に終わるものとしての、本ブログの出発だった筈である。
「愛」の妙なる調べと旋律(せんりつ)を奏でよ、それがぼくらを奮(ふる)いたたせ、さらには免疫力もアップさせ、いっそう新型コロナウイルス、COVID-19を遠退(とおの)くことにさせ、ぼくらの居る世界をポジティヴで堅固なものとしてさせていくことになるだろう。その日にむけ、ぼくらは闘う。すべての意識が悦びで連帯する、その日まで。
(注・「愛」や「分断」ということについて、本文中で述べたり、言及したりしていますが、本稿や筆者の考えは、いかなる他者の思想・信条、また、あらゆる宗教とは一切関係ありません)